二十四節気の処暑も過ぎた時期ですが、相変わらず暑い日が続いています。北海道で35℃を超える暑さだそうです。最近は豊田市が全国ニュースで最高気温の地域に挙げられることも多くなりました。歳がばれますが、私の学生時代は夏休みに炎天下で長時間の部活が当たりまえという、今では考えられない過ごし方でした。昔と比べ暑さの質が変わってきたような気もします。体感温度は軽く40℃は超えています。熱中症など命に関わることもありますので、日中炎天下での活動は避け、適切な水分補給や冷房の使用など体調管理に気をつけてお過ごしください。これだけ暑くなると高校野球をはじめとする屋外イベントのあり方も再考の必要があるかもしれません。
このような高温化は日本だけではありません。国連のグテーレス事務総長は今年「地球温暖化の時代は終わり、地球沸騰化の時代が到来した」と警告しました。7月の世界の気温は過去最高を上回り、日本以外にも地中海沿岸、米国西部、カナダ、中南米、中央アジアや東南アジアでも異常高温や小雨により森林火災の発生や人的被害を被っています。その一方で大雨や台風、竜巻などの災害が発生しています。インド・パキスタンやヨーロッパ北部、米国東部、アジアなどでは大雨による氾濫や洪水により大きな被害が発生しました。日本でも先日の台風6号と7号がもたらした大雨で九州や中国地方では氾濫や市街地でも浸水被害が発生しました。また交通網が分断され、東海道新幹線は二日以上運行に支障が出る事態となり、ちょうどお盆の時期で帰省や旅行の計画を立てていた方は空港や駅で足止めなど大きな影響が出ました。
これらの極端な高温や大雨などの異常気象は世界的な気候変動が生じているためと言われています。その原因は色々あるようですが、我々人間の日々の活動により放出される温室効果ガス(二酸化炭素、メタンなど)による地球温暖化も主な要因とされています。
高温干ばつや豪雨水害はその時だけでなく、農作物の作柄や畜産動物の発育にも深刻な影響をもたらします。秋に向けて収穫の時期になりますが、食料品の値上げや物流コストの増大など経済的な打撃も大きくなってきます。
自分の住む地域が幸いにして大雨や干ばつの被害に遭わなかったとしても地球規模の気候変動による経済的な影響は免れません。またこれらの災害はどこにでも起こり得るものという認識も必要です。
8月24日付の日経新聞に「水没危険地域で人口増」という記事が掲載されていました。
豊田市でも該当地域がありますが、浸水が想定される地域であっても市街化区域の居住誘導区域に指定されており、住宅地が増えているためです。確かに平地で坂も少ないところは住むためだけなら住みやすいのですが、想定外の大雨で排水処理能力を超えると一気に浸水に見舞われてしまいます。日頃から災害への備えやいざという時の避難場所の確認をしておくことをお勧めします。氾濫や浸水については県や市の防災マップに危険度が表示されていますので、お住まいの地域が該当する場合は特に注意してください。これから住宅購入をお考えの方は利便性などと合わせて防災マップの情報も検討材料に加えると良いと思います。
また新築やリフォームをご検討される場合は、地球温暖化の進行を遅らせるための温室効果ガス排出削減目標の達成に貢献できるZEHや省エネ窓の導入もご検討されてはいかがでしょう。電気代や水道代の軽減という現実的なメリットもあります。弊社でも推進しておりますのでお気軽にご相談いただければ幸いです。
大河ドラマ「どうする家康」は29回になり、本能寺の変から家康三大危機の一つである伊賀越えがありました。三大危機を乗り越えた家康が今後どうなっていくのか楽しみですね。
前回は、長篠城の鳥居強右衛門の活躍を紹介しました。
さて今回は、前回の長篠城址史跡保存館へ入場する時に共通観覧券を購入しておりましたので、設楽原歴史資料館へ向かいました。
道中に「道の駅もっくる新城」に立ち寄ってみました。
道の駅の中に奥三河製麺という、鶏濃い味ラーメンや豚骨ラーメン、鶏そば、温玉ジビエカレーなど、どれも気になりましたが「ししラーメン」という猪の肉がたっぷり使ったラーメンに決めました。猪の肉はしっかりとした歯応えがあり、スープはあっさり醤油で美味しくいただきました。
資料館は、武田勝頼戦地本陣跡や徳川家康本陣跡を見下ろす位置にあり、決戦の代表とする「馬防柵」を再現していました。
この柵で武田軍の馬を防ぎ、火縄銃を中心に勝敗の決め手となる戦いがあった場所になります。長篠城の援軍に駆けつけた織田・徳川連合軍が、長篠城より4キロ手前で進軍を止めたのは、武田軍の馬による機動力を封じて火縄銃を効率的に使用するために設楽原に陣を構えて、待ち構える状況を作り万全の体制を整える為だったのです。
そこで、武田軍を自軍にとって好都合な立地・設楽原へおびき寄せるために、酒井忠次率いる徳川軍が、鳶ヶ巣山砦への奇襲作戦により武田軍は退路を絶たれて、設楽原の最前線への進軍を余儀なくされました。これにより、織田・徳川連合軍の大勝利になったのでした。
設楽原歴史資料館には、多くの火縄銃が展示されており勝敗の決め手をわかりやすく紹介してありました。この時の火縄銃は30メートルくらいまでに引き寄せて撃たないと効果が少なくなるという欠点から、背後から挟み撃ちして馬防柵へ向かわせる作戦になったようです。大量の火縄銃を使った戦の勝利によって、後の火縄銃を使った戦が主流になっていったようです。
この戦により耐え抜いた長篠城はボロボロになってしまいましたので、家康は城主だった奥平信昌へ娘の亀姫を嫁がせて、新しい城を別の場所へ築くように命じ、これが新城城の始まりとなったのでした。
長篠・設楽原の戦いは、織田・徳川連合軍の大勝利と同時に武田軍の敗戦による衰退で大きく時代の変化があったような感じがしました。
家康を含めた時代背景を知ることにより、500年も前の出来事をイメージして想像することが楽しくなってきました。