大河ドラマ「どうする家康」は34回になり、信長没後に織田家の実権を握ろうと勢力を伸ばしている秀吉に対する家康は、打倒秀吉と意志を固めてきました。今後の展開が楽しみですね。
さて今回は、秀吉との激戦小牧長久手の戦いの舞台となった、小牧山へ行ってきました。小牧山城は永禄6年(1563年)に信長が築城し、清須から居城を移しました。小牧山南の大手口は直線的に山の中腹まで登り、右に折れて屈折しながら山頂の主郭に至ります。現在も小牧市役所の小牧山課が発掘調査を行なっていて、主郭の周囲には2〜3段の石垣が巡っているようです。
小牧山城は、山の形状と石垣を利用した特徴のある山城で、続日本100名城にも選出されています。
現在の小牧山には、小牧山歴史館があり信長が築造した当時から家康によって大規模改修された様子がわかりました。
れきしるこまき(小牧山城史跡情報館)もあり、小牧山の歴史や文化などがわかりました。大手口の所に小牧市役所がありました。市役所がある小牧山の南側は、信長が居城としていた時に城下町として栄えていたようです。
小牧山城に移った信長は、犬山方面を支配下に置き尾張を統一するとともに、積極的に美濃攻略を行いました。4年後の永禄10年には美濃の稲葉山城を攻略し、岐阜と名を改め居城を移しました。これにより、小牧山城は廃城となり衰えました。小牧山城が廃城となってから17年後の天正12年(1584年)豊臣秀吉軍と織田信雄・徳川家康連合軍による小牧・長久手の合戦が起こりました。信雄と家康の軍勢は、信長の居城に大規模な改修を行い、堅固な陣城を築きました。山麓を取り巻く二重の土塁や堀、虎口などは、この時に築かれたものです。
秀吉は本能寺の変の後、直ちに山崎の戦いで明智光秀を討ち、織田家の跡目相続を決める清須会議で信長の二男信雄・三男信孝を後継と認めず、信長の孫の三法師を後継とした。そして信孝と結んで対抗する柴田勝家を賤ヶ岳の戦いで破り、信孝を知多郡野間で自害をさせ、信長の実質的後継者として地位を固めた。秀吉の勢力拡大に信雄も警戒心を抱き、秀吉と戦う為に家康に援助を求めた。天正15年(1584年)家康は盟邦織田氏を助けるという大義名分で、1万5千の兵を率い、清須城へ入り、信雄軍と合流する。同年3月、秀吉軍の池田恒興は犬山城を奇襲し占拠、森長可は羽黒の八幡林で家康勢と戦って敗れた。秀吉は大阪で長可が敗れたことを聞き、直ちに3万の兵を率い大垣から犬山へ着いて戦況を聞き、小牧山の北東から包囲するよう各武将を布陣させた。そして自ら楽田に本陣を構えた。一方、信雄・家康連合軍は、小牧山に本陣を構え、小牧山から東へ連砦を築き、秀吉軍に対した。この後は大きな争いはなく4月に入って、秀吉軍は、家康の本拠地岡崎を奇襲する作戦が始まったのである。家康・信雄連合軍を上回る恒興、長可、元助、堀秀政、秀吉の甥・羽柴(のち豊臣)秀次ら秀吉軍別動隊2万が、4月6日の夜半、楽田の陣地を後にしたのです。しかし、家康が放っていた忍びは、この巨大な一軍を見逃しませんでした。8日早朝、家康はまず先発隊4500を、秀吉別働隊の進路途中にある小幡城に入れ、自身は信雄を語らって小牧山本陣を空同然にし、密かに出撃。小幡に入城して、待ち伏せの態勢を取りました。やがてそこに、秀吉軍別働隊が進軍してきます。翌4月9日早朝、秀吉軍別働隊は急追してきた家康軍先発隊に、背後から攻撃を受けました。前方を進軍していた恒興、長可の部隊が取って返して、徳川軍先発隊をいったんは撃退しますが、家康が率いる本隊に攻め立てられ、挟み撃ちされる形で総崩れとなり、恒興―元助父子、長可は討死、辛くも立て直した堀秀政は、秀次の軍を庇いつつ戦線を離脱するのがやっとのありさまでした。秀吉が、別働隊壊滅の報を聞いたのは、その日の昼頃です。急遽、家康・信雄連合軍を捕捉・殲滅すべく全軍を投入。自ら2万の兵を率いて出撃しますが、日暮れになったので、小幡の城攻めは明朝と決め、やむなく龍泉寺川原に夜陣を張りました。家康は夕刻、小幡城に入り、ここで敵の動向を見極め、攻め寄せてくればこの城で防戦しようと考えていましたが、間諜より秀吉軍が総力を挙げて進軍中と伝えられ、この城では防ぎきれないと判断して、夜半になって急ぎ小牧山に帰陣しました。この後両軍のにらみ会いが続いたが、大きな合戦をすることなく5月1日秀吉軍の主力は小牧地区から退き、また家康軍も7月中旬には兵を引いた。この年の11月、桑名で秀吉と信雄が和議を結び、次いで信雄の勧めで家康も秀吉と和解し、8ヶ月にわたる小牧・長久手の合戦は幕を閉じました。
秀吉は圧倒的な戦力がありながら、総攻撃を行わなかったのはどんな考えがあったのか、また家康は、小牧・長久手の戦いには勝利したが、天下統一という政治的・外交的な枠組みの中では、明らかに秀吉に及ばなかったことを理解した戦ではなかったのかと思いました。
こんにちは。本日もブログを読んでいただき、ありがとうございます。9月になっても残暑が続いていますが、みなさまいかがお過ごしでしょうか?私事ではありますが、先日北海道に旅行に行ってきました。8月23日に札幌で最も遅い猛暑日を観測したとの報道があり、あちらもまだ暑いかなと思いながら出発しましたが、現地に着くと湿度も低く、それほど暑さを感じることなく快適に過ごすことが出来ました。やはり湿度が大きく影響することを、肌身を持って体感できました。
北海道では主に札幌を中心に北広島や小樽へ行ってきました。平日なのでそれ程混雑していないだろうと思っていましたが、そこは観光地…しっかり混雑していました。とは言ってもお盆休みほどでは無いと思いますが、飲食店やホテル、レンタカーなどは予約してないと入れなかったり取れなかったりと思うような観光はできませんでした。それでも電車やバス、タクシーを使って予定通り北海道を満喫して来ました。
北広島では今年の春に開業したエスコンフィールドを見てきました。試合の無い日は誰でも無料で球場内に入る事が出来ます。新しい球場だけあって設備は素晴らしいものがありましたが、球場自体はそれほどの大きな感じはしませんでした。訪問した日は、ちょうど天然芝の養生日で屋根が開いていました。動くところは見られませんでしたが、あの大きさの屋根が動くと思うと圧巻です。また、スタジアムツアーに参加するとファイターガールズがガイドをして、内野席や一部グランドにも入る事が出来ます。プレミアムツアーでは監督室の見学もあるそうですが、今回は予約が取れなかったので外野席から見学のみとなりました。興味のある方は早めの予約をお勧めします。
小樽では海鮮丼を食べ自転車を借りて小樽運河を一周まわり、ガラス細工を見たり昔ながらのレンガ倉庫の見学などをしてきました。子供たちにとってはあまり興味の無いことでしょうが、将来何かのきっかけで行ったことを思い出してもらえれば良いと思いました。家族旅行となるとそれぞれ趣味趣向が違うため目的がばらばらになりがちですが、目的地より家族で行ったという事が大事なんだと感じました。今後子供たちが成長し思うように日程を合わせづらくなる事を考えると、貴重な家族旅行なんだなと感慨深くなります。
皆様は大事な人と貴重な時間を過ごしていますか?何かをするに遅いことは無いと言いますが、今しかできない事もたくさんあると思います。やりたいことを先延ばしするのではなく、他の事を置いておいても今を楽しむことが重要なのだと感じる旅行でした。
本日も最後までブログを読んでいただきありがとうございました。
二十四節気の処暑も過ぎた時期ですが、相変わらず暑い日が続いています。北海道で35℃を超える暑さだそうです。最近は豊田市が全国ニュースで最高気温の地域に挙げられることも多くなりました。歳がばれますが、私の学生時代は夏休みに炎天下で長時間の部活が当たりまえという、今では考えられない過ごし方でした。昔と比べ暑さの質が変わってきたような気もします。体感温度は軽く40℃は超えています。熱中症など命に関わることもありますので、日中炎天下での活動は避け、適切な水分補給や冷房の使用など体調管理に気をつけてお過ごしください。これだけ暑くなると高校野球をはじめとする屋外イベントのあり方も再考の必要があるかもしれません。
このような高温化は日本だけではありません。国連のグテーレス事務総長は今年「地球温暖化の時代は終わり、地球沸騰化の時代が到来した」と警告しました。7月の世界の気温は過去最高を上回り、日本以外にも地中海沿岸、米国西部、カナダ、中南米、中央アジアや東南アジアでも異常高温や小雨により森林火災の発生や人的被害を被っています。その一方で大雨や台風、竜巻などの災害が発生しています。インド・パキスタンやヨーロッパ北部、米国東部、アジアなどでは大雨による氾濫や洪水により大きな被害が発生しました。日本でも先日の台風6号と7号がもたらした大雨で九州や中国地方では氾濫や市街地でも浸水被害が発生しました。また交通網が分断され、東海道新幹線は二日以上運行に支障が出る事態となり、ちょうどお盆の時期で帰省や旅行の計画を立てていた方は空港や駅で足止めなど大きな影響が出ました。
これらの極端な高温や大雨などの異常気象は世界的な気候変動が生じているためと言われています。その原因は色々あるようですが、我々人間の日々の活動により放出される温室効果ガス(二酸化炭素、メタンなど)による地球温暖化も主な要因とされています。
高温干ばつや豪雨水害はその時だけでなく、農作物の作柄や畜産動物の発育にも深刻な影響をもたらします。秋に向けて収穫の時期になりますが、食料品の値上げや物流コストの増大など経済的な打撃も大きくなってきます。
自分の住む地域が幸いにして大雨や干ばつの被害に遭わなかったとしても地球規模の気候変動による経済的な影響は免れません。またこれらの災害はどこにでも起こり得るものという認識も必要です。
8月24日付の日経新聞に「水没危険地域で人口増」という記事が掲載されていました。
豊田市でも該当地域がありますが、浸水が想定される地域であっても市街化区域の居住誘導区域に指定されており、住宅地が増えているためです。確かに平地で坂も少ないところは住むためだけなら住みやすいのですが、想定外の大雨で排水処理能力を超えると一気に浸水に見舞われてしまいます。日頃から災害への備えやいざという時の避難場所の確認をしておくことをお勧めします。氾濫や浸水については県や市の防災マップに危険度が表示されていますので、お住まいの地域が該当する場合は特に注意してください。これから住宅購入をお考えの方は利便性などと合わせて防災マップの情報も検討材料に加えると良いと思います。
また新築やリフォームをご検討される場合は、地球温暖化の進行を遅らせるための温室効果ガス排出削減目標の達成に貢献できるZEHや省エネ窓の導入もご検討されてはいかがでしょう。電気代や水道代の軽減という現実的なメリットもあります。弊社でも推進しておりますのでお気軽にご相談いただければ幸いです。
大河ドラマ「どうする家康」は29回になり、本能寺の変から家康三大危機の一つである伊賀越えがありました。三大危機を乗り越えた家康が今後どうなっていくのか楽しみですね。
前回は、長篠城の鳥居強右衛門の活躍を紹介しました。
さて今回は、前回の長篠城址史跡保存館へ入場する時に共通観覧券を購入しておりましたので、設楽原歴史資料館へ向かいました。
道中に「道の駅もっくる新城」に立ち寄ってみました。
道の駅の中に奥三河製麺という、鶏濃い味ラーメンや豚骨ラーメン、鶏そば、温玉ジビエカレーなど、どれも気になりましたが「ししラーメン」という猪の肉がたっぷり使ったラーメンに決めました。猪の肉はしっかりとした歯応えがあり、スープはあっさり醤油で美味しくいただきました。
資料館は、武田勝頼戦地本陣跡や徳川家康本陣跡を見下ろす位置にあり、決戦の代表とする「馬防柵」を再現していました。
この柵で武田軍の馬を防ぎ、火縄銃を中心に勝敗の決め手となる戦いがあった場所になります。長篠城の援軍に駆けつけた織田・徳川連合軍が、長篠城より4キロ手前で進軍を止めたのは、武田軍の馬による機動力を封じて火縄銃を効率的に使用するために設楽原に陣を構えて、待ち構える状況を作り万全の体制を整える為だったのです。
そこで、武田軍を自軍にとって好都合な立地・設楽原へおびき寄せるために、酒井忠次率いる徳川軍が、鳶ヶ巣山砦への奇襲作戦により武田軍は退路を絶たれて、設楽原の最前線への進軍を余儀なくされました。これにより、織田・徳川連合軍の大勝利になったのでした。
設楽原歴史資料館には、多くの火縄銃が展示されており勝敗の決め手をわかりやすく紹介してありました。この時の火縄銃は30メートルくらいまでに引き寄せて撃たないと効果が少なくなるという欠点から、背後から挟み撃ちして馬防柵へ向かわせる作戦になったようです。大量の火縄銃を使った戦の勝利によって、後の火縄銃を使った戦が主流になっていったようです。
この戦により耐え抜いた長篠城はボロボロになってしまいましたので、家康は城主だった奥平信昌へ娘の亀姫を嫁がせて、新しい城を別の場所へ築くように命じ、これが新城城の始まりとなったのでした。
長篠・設楽原の戦いは、織田・徳川連合軍の大勝利と同時に武田軍の敗戦による衰退で大きく時代の変化があったような感じがしました。
家康を含めた時代背景を知ることにより、500年も前の出来事をイメージして想像することが楽しくなってきました。